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●下柴獅子団の由来

 喜多方市関柴町字下柴に伝来する鞨鼓獅子舞で、「下柴の彼岸獅子」とよばれている。

鞨鼓獅子舞は、腰に太鼓を付けることからこの名がある。この獅子はライオンの獅子とは違って、

猪やカノシシといった鹿、アオシシ(カモシカ)など、古くから日本に生息していたシシのことである。

 これらのシシはときおり山から里に下りてきて田畑を荒らすが、カミは山にいると信じられていたので、

人々はシシをカミの化身か使いと考え、むやみに追い払ったり、殺すことをためらった。

そして里で楽しく舞い遊んで帰る姿を、自ら神社や寺の前で演じ、そうなることを祈ったのが始まりといわれている。
 地元の伝承では、天正年間に全国に悪疫が流行した折、下柴の古橋角(覚)太夫が京都の御所に鹿殿を建て、

獅子舞を演じてその退散を祈願したとろ、たちまちにして平癒したので天皇より「天下一鹿殿」の号を下賜ったと伝え、

大判の紙に「天下一鹿殿関白村古橋角太夫」と書いてある。
この古橋角太夫は下野国(栃木)の獅子太夫で、寛永年間(1624~44)に旅の途中に下柴に住み着き、舞を伝授したという。

 角太夫の墓とも供養塔ともいわれる石造の五輪塔が集落内の菩薩山安楽寺に残っている。

また、下柴には多くの文書が残されている。その中には享保9年(1724)に会津郡天寧村(会津若松市天寧)の木村長
七ほか3名が、下柴の小林勘三郎に宛て、獅子舞を習い受けることを願い出るとともに

、巻物は他に見せたり他言することは決してしない旨を記した文書がある。
その他、河沼郡郡山村(河東町)が明和5年(1768)に、上荒久田(会津若松市)と滝沢村(同)

が同じ寛政9年(1797)に、さらに羽州米沢梓山上組(山形県米沢市)が文政11年(1828)にそれぞれに伝授したことを示す文書がある。
下柴は会津地方における彼岸獅子のいわば祖として、重要な役割をはたしていたといえる。

 このように下柴の彼岸獅子は、会津の彼岸獅子の中でも最も古い歴史を持ち、しかも所作にも古風をよく残しているため、

彼岸獅子としては唯一、福島県の重要無形民俗文化財に指定されている。
最後に、獅子頭の最大の特徴である頭髪は古来より会津に飼われている会津地鶏の尾羽が使われており一羽から

2~3本しか取れない貴重なものである。
 

由来

団長、副団長、会計の三役と

​役員、特別職の組織構成

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下柴獅子団の組織

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プロジェクト
機能

​演目

「庭入り」三人舞で、最初縦一列に並んで舞う

「山おろし」三人舞で横又は盾に並んで舞う

「弓舞」太夫獅子が弓を恐れて近づいては離れ、最後に弓を潜った後、三人舞で締めくくる。

「弊舞」雄獅子と弊舞小僧が二組の弊束と鈴を持って舞、途中で一組を雄獅子に渡し共に舞う。

    途中で、弊舞小僧がその頭上で弊舞と鈴を左右に振って清める。

「棒舞」雌獅子の一人舞、横に置いた棒を恐れて、近づいては離れるのを繰り返す。

その他 「巣場探し、雌獅子隠し、中半打入り、袖舞、雌獅子舞、太夫舞、雄獅子舞」等の舞がある

獅子頭・衣装・その他

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左から 太夫獅子 雌獅子 雄獅子

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